ウツから抜けるまで

ウツっぽさを抱えながら働く会社員が考えたことをまとめるためのブログ

親として子どもに禁止すること

私は親からありとあらゆることを禁止されてきた。 中学生、高校生の頃は読書や音楽を聴くことなどが禁止されてきた。 大学生になってからは、行動範囲が広がることを親は懸念したのか、カラオケに行くことや恋人を作ることが追加で禁止されていた。 自分で何か買うことも親の許可が必要だった。

もっとも、上記のことを完璧に抑制できるわけもない。大学生2年生のとき、親に隠れてiPodドン・キホーテで買った。ただし、緊張して心臓がバクバクしたことを今でも覚えている。

話は変わるが、私の母親は子どもたちに「親への感謝が足りない!」と年がら年中キレていた。今思えば、自分が蔑ろにされることが怖かったのだろう。その中に「バイトできることを親に感謝しろ!」というものがあった。

私としてはバイトによって得られたお金の一部を家に納めていたのだから、感謝されることはあっても、親に感謝することは何もないと思っていた。なにより私自身はバイトをしたいと全く思っておらず、家にお金を納めたり、昼食代を払ったり、服を買ったりするお金を稼がなければ生活できないから、仕方なしにバイトをしていた。

親がお金をくれるのであれば、バイトを一切やっていなかったと思う。 なのに、「感謝しろ」とはどういうことか?

そんなことを考えていたときに、最近ひらめいたことがある。私の親の発想は下記のようなものだったのではないか? 親は子どもの行動全てを禁止する。その前提の中で、親が許可したものだけを実施してよい。

このように考えると、バイトをすることは、親が特別に許可した行動だからできることであり、許可したことに感謝しなさいという意味だったのではないかと思われる。このことに気が付いて戦慄した。

親が子どもの行動を禁止することは当然あってしかるべきである。しかし、それは子どもの身体・精神の安全を守るための禁止である。だから、基本は自由。けれど、〇〇は禁止という形式で語られるべきである。けれど、私の親は全て禁止。けれど、〇〇は許可するという形式で子どもの行動を抑制していた。

その結果、子どもは2人とも(我々は2人兄弟で、私が長男)精神を病むことになってしまった。

けれど、このような経験をしてある意味では良かったと思う。私は自分の子どもに何かを禁止するときに、基本は自由。けれど、〇〇は禁止という形式で語るべきということに気が付けたのだから。

抑圧とは不快なものである。抑圧は自分の行動や考えを制限し、色々なことに対する解決策を見つけられなくする。

抑圧はどこからくるかと言えば、私の場合は自分自身である。けれど、最初に私に抑圧を植え付けた人は誰か?

親と学校の先生だ。

私の親は両親とも精神的な困難を抱え、カウンセリングやメンタルクリニックでの治療を受けていた。その親から受けた抑圧は計り知れない。

ゲーム、読書、音楽、友人と遊びに行くこと...。中学生から高校生まで禁止されていたことだ。

学校の先生からの抑圧も色々あった。今はどうかわからないが、当時は体罰をふるう先生が結構いた。転校初日に殴られたのには驚いた。

暴言も日常茶飯事で、同級生から殴られて血が出ている私に「お前がろくでもない人間だから殴られるんだ」と言い放つ先生もいた。

そんなこんなで私の周辺にいた大人は、子どもであった自分を痛めつけ、抑圧という檻に入れることに成功した。

その結果、そういった大人たちの束縛から解放されて8年も経過したのに、いまだに抑圧を感じる。

例えば、音楽を聴くことに罪悪感を私は今でも持つ。音楽を聴く行為は禁止されており、破れば暴力。それが身体にしみこんでいるから、音楽を聴こうとすると口は乾き、鼓動が早まる。だから音楽を聴くことは怖い。

以上のことを明確に理解できるようになったのは、カウンセリングを受け始めてからだ。私が通うメンタルクリニックの医師は、「カウンセリングなんて意味ない」と言っていたが、患者である私からしてみれば、医師の診察や処方される薬よりよっぽど効果あるように感じられたのだがな。

今後は、この抑圧を完全に取り払っていきたいと思っている。この間、電車の中で恐る恐る音楽を聴いたときに、周囲を見渡して思ったことがある。

「音楽を聴いている自分を見て、怒り狂う人はもう存在しないのだ」

この感覚を腹の底から持てたとき、本当に世界が変わった気がした。と同時に、この感覚を抑圧を感じる全ての要素に対して持ちたい。

自分の周りにいた大人たちにいってやりたい。余計な宿題を背負わせやがったなと。

 

 

 

 

 

 

 

 

それぞれの世界で読むべき本

前回の記事で、うつの人には2つの世界があるのではないかということを述べた。

utsunuke.hatenadiary.jp

本を読むときもこれを意識したほうが良い。

例えば、社会的ステータスを求める世界にいる際には、自己啓発本などを読むと「自分も頑張ろう!」という気持ちになる。しかし、まともな生活をできることを求める世界にいるときに自己啓発本を読むと「自分には無理だ」という気持ちが湧き出て辛くなる。

だから、読むべき本は自分が今いる世界に合わせるべきなのだ。

話は脱線するが、私は調子が悪いときにアダルト・チルドレンの本を読んで少し楽になった。

下の本はアダルト・チルドレンの基礎中の基礎について書かれている。 文量も短い。

下の2冊は、ワークを実施することでアダルト・チルドレンからの回復を目指した本だ。 ワークがある分読むのに時間はかかった。

なんにせよ、自分が生きる世界に合わせた本を読むことが大事なのだと思う。

心の中の世界

本記事のテーマ

うつ病の人は、人生における目標を立てにくい。調子が良いときと悪いときの差が大きいからだ。調子が良いときに立てた目標は、悪いときからしたら巨大すぎる。一方、調子が悪いときに立てた目標は、良いときから見ると物足りない。

そんなことを考えていた時に、うつ病の人は、目標を複数立てれば良いのではないかと思いついた。

今回の記事で、うつ病の人は、調子の良いときと悪いときでそれぞれ別個の目標を持つことを提案したい。

うつの人が生きる世界

先ほど、うつの人には調子が良いときと悪いときがあると書いた。しかし、本人の感覚からしてみると、調子が良いときと悪いときは、もはや違う世界である。

例えば、調子が良いときというのは、色々なことができる。このとき、調子が悪かった時の自分の感覚を思い出すことができない。一方、調子が悪いときは、調子が良かった時のようにテキパキと行動することができず、本当に調子が良かったときなんてあったのかという気分になる。

だから、今後は調子が悪い・良いということの連続性のなさを表現するために、「世界」という言葉で捉えていきたい。

私の場合、調子が良い・悪いの2つの世界を図1のような感じで捉えている。

図1:心の中の世界

あくまでも私の場合であるが、調子が良いときは出世したいなどの俗っぽい欲求を私は持っている。しかし、調子が悪いときは、出世のことなど考えられず、ただひたすら死にたいとか、何もかも放り投げて逃げ出したいと思っている。

目標を立てることの難しさ

私の場合ではあるが、図1に書いた2つの世界は分断されている。つまり、「社会的ステータスを求める世界」にいるときは、「まともな生活をできることを求める世界」のことを忘れている。逆もまたしかりである。

そのため、ある片方の世界で立てた目標は、もう一方の世界を生き抜くのに合致していない目標となってしまう。例えば、「社会的ステータスを求める世界」にいるときに立てた目標「毎日勉強する」は、「まともな生活をできることを求める世界」にいるときは遥か彼方遠くの目標に感じられてしまう。

目標を立てる難しさとは、目標を立てる瞬間に自分がいる世界の事情しか考慮できず、目標を立ててしまうことにあると私は感じている。

どうやってクリアするか

それぞれの世界に応じた目標を立てることでクリアする。例えば、「社会的ステータスを求める世界」に自分がいるときの目標を「毎日勉強する」と設定したとする。このとき、一緒に「まともな生活をできることを求める世界」にいるときの目標も立ててしまうのである。その例として、私は「通っているクリニックから処方された薬を毎日飲むこと」を設定している。(図2)

図2:各世界の目標とアクション

世界ごとに目標を立てて自分がどうなったか?

世界ごとに目標を立てることで、非常に楽になった。

以前は「まともな生活をできることを求める世界」にいるときでも、「社会的ステータスを求める世界」の目標が常に頭の中にあった。そのため、「今日は目標達成のためのアクションを取れていない。自分はもうダメだ!!」と思い、より自分を追い込んでいた。

しかし、今は世界ごとに目標を立てることで、「今日は『まともな生活をできることを求める世界』にいるのだから、それに合わせたハードルの低い目標を達成できれば良いのだ」と思えるようになったのだ。

うつに悩んでいる皆様も、自分に合った目標を複数立てておき、その日の気分や調子に応じて達成しようとする目標を変えてみるのはいかがでしょうか?